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お知らせ2025.03.31

2024年度グローバルリーダー演習生による活動報告(後編)はこちらから!

Part 1(前編)に続き、2024年度グローバルリーダー(GL)演習履修生5名が1年間の学びの軌跡を綴った報告です。幾度も書き直しながら綴った大作を、どうぞご覧ください!

【GL24】学びは日々の小さな瞬間に~「自分」×「グローバルリーダー」~Part 2

グローバルリーダー (GL) 演習では、共に「やってみる」「感じる」「考える」を何度も繰り返すプロセスを通して、自分の学びを言語化することを目標としています。座学で学んだ理論や概念と、教室の中だけでおさまらない実践を往還しながら、自己や他者、社会を知り、「自分はどうありたいか」「どんなグローバルリーダーになりたいか」を模索します。

Part 1では、私たち2024年度GL演習 (GL24) 履修生がチームとして何に取り組み、どんなひとに出逢い、何を学んできたのか、1年間の「あゆみ」をお届けしました。

Part 2では、その1年間の体験的な学習プロセスを経て、それぞれが捉え直した「グローバルリーダー」「グローバルリーダーシップ」、自分と「グローバルリーダー」を重ねることで生まれた学び、さらに、今後への拡げ方の見通しを綴ります。 

目次
Part 1
1.1年間のあゆみ ~その概略
2.各活動のダイジェスト
【Part 2】
3.「自分」と「グローバルリーダー」「グローバルリーダーシップ」
4.GL演習(GL24)から拡げる学び
5.私たちのこれから

3.「自分」と「グローバルリーダー」「グローバルリーダーシップ」

福田優月・環境科学科 新4年。最近初めて喫茶店で白プリンを食べて感動しました。
「グローバルリーダー」を身近に(ゆづ)

「グローバルリーダー」って遠い存在?
GL演習 (GL24) が始まった頃は、「グローバルリーダー」について、Perruci (2022) の定義「グローバルリーダーは、世界の飢餓、気候変動、生物多様性の崩壊を独りで解決することはできない。しかし、地域の、国家の、そして国際的な組織のリーダーと協力することで、様々な資源を活用できる。」(p. 15) をふまえて「世界の飢餓、気候変動、生物多様性など、グローバル課題の解決に向けて、日本を飛び出して海外でも行動する人」だと考えていた。単純にグローバルを翻訳すると「世界規模」となることから、「グローバル」=「海外」というイメージが強かった。

具体例を出すと、私は「グローバル課題」としての貧困は、そもそも食料や水、病院、住居などの必要な物やサービスがない、もしくは経済的困窮により、満足な食事をとれない、教育や就業機会を得られない、病院に行くことができないなどを考えていた。そのような貧困状態の人々がいる海外の現場に出向き、NGOなどの国際開発協力をしている組織の一員として食料や水を自分たちで供給できるような仕組みをつくったり、医師や看護師として医療の現場を支えたりするなど、直接グローバル課題にアプローチをする人が「グローバルリーダー」だと想像していた。

私は、海外で生活できるほどの語学力もないし、何か人にものを教えるための資格も持っていない。なにより、いくら誰かのためになるといっても、日本とは食も環境も全く異なるような土地に行く勇気はない。これらの理由から、私が考えるような「グローバルリーダー」は自分とは違う特別な存在だと思っていた。そして正直、「グローバルリーダー」について学び、考えたいという動機ではなく、何か新しいことを始めることで自分自身を成長させたいという動機でGL演習の履修を決めた私は、海外留学に行く予定もないし、「グローバルリーダーって自分とは遠い存在のままなのだろうな」と思っていた。

そんな気持ちから始まった私だが、GL演習最初のゲストである千松信也さんから「他者を知り、自己を知ること」を学び、宮ヶ迫ナンシー理沙さんの生きざまを聴いて「自分はどうありたいか」考えた。そこからさらに、3連続企画で「自分はどのようなグローバルリーダーになりたいのか」を考えた。それぞれのゲストの方のお話を聴き、「グローバルリーダー」についての考え方が変わっていった。「グローバルリーダー」は特別な存在だと自分から遠ざけるのではなく、もっと身近なものにしたいと思った。そんな私が今考える「グローバルリーダー」の特徴は次の2つである。

自分自身のことをよく知り、話せるようになる
私が考える特徴の1つ目は、「『相手を知る』ために、自分や自分がいるコミュニティについて話ができる人」である。

Perruci (2022) が言う、「グローバルな問題に取り組む多様なプレーヤーを引き合わせ、協働していくための触媒」(p. 16) の役割を果たすには、自分が引き合わせようとしている人たちのことを知り、相手にも自分のことを知ってもらう必要があると考える。なぜなら、お互いを知って、関係性を築いてはじめて、「この人たちと協働していこう」という気持ちになると思うからである。

このように考えるようになったのは、千松さんの「相手を知るにはまずは自分を知ること」という言葉から。相手のことをよく知りたいのなら、まずは自分から自分自身のことを話さなければ始まらない。協働のためには、お互いを知ること。その第一歩として、「自分や自分がいるコミュニティについて話ができるようになる」ことは、大事なことだと気づいた。

それまで、「自分について話ができる」とは「自分の趣味や性格・価値観を話すこと」だと考えていて、自分がどんな大学に通っているのか・どんな勉強をしているのか、自分の住んでいる地域はどのようなところで、どんな課題があるのかを聞かれてもうまく話せなかった。特に、大学・勉強については親戚や友達に聞かれることが多かったが、そのような身近な人にもうまく説明できないのなら、Perruciが言う「グローバルな課題に取り組む多様なプレーヤー」など必ずしも知り合いの間柄ではない人には尚更うまく話せないと思った。

しかし、千松さんの「自分が所属してる場所に責任をもつ」という言葉がどういうことなのかを自分の中で発展させて、自分が属しているコミュニティも「自分」だと考えるようになったことで、ちゃんと自分の言葉で、コミュニティも含めた「自分」について話せるようになりたいと思った。対話をするのはひとりの「自分」だとしても、相手にとっての「自分」は「○○に所属している・住んでいる人」であり、誰かと協働するとなれば、「自分」はそのコミュニティを代表する人になると思うからである。「自分」はこんなコミュニティにいて、こんな背景があるからこんな価値観を持っている、を伝えられることが、協働する相手と関係を築き、共通認識をつくるための第一歩になるのではないだろうか。

まずは自分に身近な地域に目を向けることから
2つ目の特徴は、「直接グローバル課題にアプローチできなくても、めぐりめぐって、グローバル課題解決につながるような行動ができる人」である。

今はそう考えているが、3連続企画実施中は依然として、実際に海外で活動しているゲストのお話を聞き、やはりグローバルリーダーは海外に出向き、現場を知り、そこで現地の人と関わりながら一緒に課題を解決する活動を行う必要があるのかな、と考えていた。しかし、メンバーで企画の振り返りをする中で、3連続企画のゲストに共通していることは、自分がいる場所やそこで暮らしている人のことをよく知っていて、その地域・人々のために、「自分はこうしたい」という思いがあることだと気づいた。

冒頭に挙げた例のように、海外に行って直接グローバル課題にアプローチできたら、それはすごく理想だなと思う。しかし、海外で活動していなくても、自分が暮らしている地域を知り、地域の課題とグローバル課題をつなげて考えること。そして、地域レベルでも解決策を考えて実践し、それがめぐりめぐってグローバル課題解決に貢献できれば、それもグローバルリーダーの役割だといえるのではないかと考えるようになった。

自分がまだ目を向けていないだけで、自分が暮らしている地域にもグローバル課題と重なるような課題はある。例えば、福岡市社会福祉協議会によると、日本は、7人にひとりが「子どもの貧困状態」と言われており、福岡でも、家庭の経済的困窮を背景に、教育や体験の機会に乏しくなっている子どもたちがいる。まずはそのような問題に意識を向け、自分がいる場所からどのような人々と協働していくことができるかを考え、実践に移していけたら良いと思う。

自分の専門分野で考えてみる
今実際にゼミで私が向き合っている地域の課題がある。それは阿蘇の草原の「過少利用」である。阿蘇の草原は、一見ひとつの草原のように見えるが、実は区画化されており、それぞれ○○牧野と名付けられ、牧野組合 (その牧野を利用する権利を持った地元住民によって構成される) によって管理されている、いわゆる共有地 (コモンズ) である。コモンズとは、特定のグループが主体となり、共同で所有・管理する資源のことである。例えば、日本の里山は地域住民が、近海資源は漁業協同組合が主体となって所有・管理している。

阿蘇の草原はこれまで、牧野組合によって、牛や馬の放牧・採草・野焼き (春に枯れ草を焼き払う) のサイクルで利用・管理が行われてきた。しかし、組合員の高齢化や草原の利用価値の低下により、利用されずに管理放棄されている牧野が増えている。草原は採草や野焼きをすることで、森林へ遷移することを防ぎ、維持されてきた。管理放棄されると、草原が遷移し森林になる。草原が森林になると、景観が失われるだけでなく、草原にしか生育しないような植物や昆虫がいなくなり、生物多様性も失われる。このように、自然資源が十分に利用・管理されないことで起きる問題を「過少利用問題」という。

私自身この問題を知るまでは、自然資源に関わる問題をグローバルな規模で考えると、森林伐採など、過少利用とは反対の「過剰利用問題」があることしか認識していなかった。しかし、草原の過少利用によって生物多様性が失われると知り、「生物多様性の危機」という面でグローバル課題とつながることに気づいた。阿蘇の草原には絶滅危惧種のヒゴタイ、ハナシノブという植物も生息している。このような植物を守るためにも、草原の過少利用問題を解決する必要がある。

これから卒業研究として、阿蘇の草原の過少利用状態を改善するために、今まで牧野組合でのみ利用していた草原を、新しい利用価値として観光資源というかたちで牧野組合以外の人々も利用できないかを検討する予定である。現在すでに、草原でマウンテンバイクに乗ったり、トレッキングをしたりと観光資源としてガイドさんの案内付きで利用されているが、持続的な採算性を考えると厳しいこともある。今はまだ、研究目的を明らかにする過程にいるが、草原を観光利用する上での課題にも向き合いながら、観光資源としてどのように草原を利用できるかについて検討したいと考えている。

この1年間を通じて、普通に過ごしていたら出逢えなかったたくさんの大人たちに出逢った。お話を聞く中で、「留学にも行かないし」と勝手に自分から遠さげていた「グローバルリーダー」を少しでも身近にできないかと思うようになり、自分自身や自分がいる場所を客観視したり、何か学べたら、と学外のイベントに参加したりするようになった。今でも考えることはしんどいし、自分の普段の活動範囲から離れたところに行くのは少し面倒だと思うこともある。それでも、考えた先・行った先で何かつかめるものがあり、その何かがおもしろい。だからこそ、これからも「自分」や「グローバルリーダー」を探求したいと思うのだろう。
大亀彩花・国際教養学科 新3年。大学生になってからスキーに夢中。北海道にも行きました!
やっと見つけた私なりの「グローバルリーダー」 (あや)

「グローバル」の5文字
GL演習 (GL24) を履修する以前の私は、「グローバルリーダー」という言葉を聞いたとき、「世界規模の問題を解決するために尽力している人」というイメージを持っていた。既存のグローバルリーダーの定義から導き出したものでもなかったので、世界の問題を解決する人=日本以外の海外で活動している人、のようにゆづさんのイメージよりもずっとアバウトな考えだった。

大学に入学したころは、リーダーとは役職的に上の立場で、集団を引っ張るカリスマ性をもっている人だと考えていた。そして、自分はリーダー的役職になりがち/されがちで、前に立って皆をまとめ、面倒なことをやらないといけない、そういう風にどちらかというとネガティブなイメージを持っていた。しかし、1年次に履修していた、「リーダーシップ論」や「英語で学ぶ『リーダーシップ』」の授業で、シェアド・リーダーシップ (石川 2022)、リーダーシップの8つのキー概念 (Kouzes & Posner, 2013) を学習したことで、その認識は大きく変化した。

リーダーシップとは、個人が生まれながらにして持つ才能のようなものではなく、人と関わることや、何かを実行するときにうまれるプロセスそのもののことを指すこと、そして、誰でも学ぶことが可能で、変化を生み出すことができると学び、自分なりの方法で、所属する集団にコミットできる人をリーダーだと理解するようになった。

リーダーに対する新たな考え方は、日々の生活の中で実践できそうだと思っていたが、GL演習を履修し、グローバルリーダーについて考え始めた中で、グローバルという、たった5文字が増えただけで、自分の中で腑に落とすことがとても難しくなった。「世界規模の問題を解決するために尽力している人」のことを指すのだとしたら、世界を舞台に活動していない私は、グローバルリーダーにはなれないのか、その場合どうしたら、グローバルリーダーというものを、私なりの言葉で表せるようになるのか、リーダーとグローバルリーダーの違いは何があるのか、そう考えていた。

新たな「グローバルリーダー」像
しかし、GL演習でゲストの方からお話を伺い、企業や市民社会、国際機関というそれぞれの立場からグローバルリーダーについて考えることを目的とした3連続企画を通して、グローバルリーダーとは、「自分の小さな行動ひとつも、グローバル社会につながっていると認識したうえで、想像力をはたらかせ、相手のことを考えられる人」のことではないかと考えるようになった。

GL演習で、グローバル社会とは、日本以外の国で起こっている、規模の大きな問題だけがある社会のことをいうのではなく、どの国も、かつその国のローカルな部分も関係する問題がある社会を意味すると学んだ。そのため、解決するには、企業や市民社会、国際機関に所属する人など、様々な立場の人たちが協働する必要がある。なぜなら、それぞれの立場でできることは限られているし、逆に言えば、その組織にしかできないこともあるからだ。例えば、3連続企画のゲストであるUN Womenの田中さんは、国際機関という枠や縦割りになりがちな所属組織内の業務においても、それをこなすだけではなく、共に仕事をする仲間の立場まで想像し、割りあてられた立場的な役割を一歩出て行動し続けることの重要性をお話ししてくださった。

つまり、自分視点の見方だけで行動するのではなく、想像力をはたらかせ、共に何かを成し遂げようとする相手の目線に立つことができるようになってはじめて、問題に対して、自分の立場からどうアプローチすることができるかがわかり、協働していくことができるようになる、ということではないだろうか。このような経験から、「自分の小さな行動ひとつも、グローバル社会につながっていると認識したうえで、想像力をはたらかせ、相手のことを考えられる人」が自分がなりたいグローバルリーダー像だと考えるようになった。

日々の瞬間とつなげて考える
「自分の小さな行動ひとつも、グローバル社会につながっていると認識したうえで、想像力をはたらかせ、相手のことを考えられる人」という私のグローバルリーダー像は、日々の行動のプロセスでも、個人が動いても何も解決しないだろう...という風に距離を取ってしまうのではなく、自分の地域や身近な環境に置き換えてみることで、実行できることがたくさんあると、GL演習でのアクションを通じて感じるようになった。

例えば、地球温暖化そのものにアプローチすることは難しいけれど、地方自治に関わってみることで自分の意見を伝えていくことができたり、社会問題について語り合うイベントに参加し意見交換することで、お互いに新しい考えを得られたり。「いつもきれいに使っていただき、ありがとうございます。」というトイレのポスターは何を伝えたいのか、友だち同士で話し合うことですら、「本当に伝えたいことは?何がこうさせている?」と考えるきっかけになる。そうローカルに落とし込んで考える力が、ゆくゆくはグローバルな問題の解決につながっていくかもしれない。

どんなことも、グローバル社会とつながっていると考えているからこそ、身の回りにある些細なことにもっと想像力を働かせたい、そう思いつつも、どこか自分視点で物事を考えがちで、言葉だけな自分がいる。威勢よくものは言うものの、いつも惜しい、あと一歩足りない。そんな自分でい続けるのは嫌だ。あと一歩の自分から抜け出すには、きっと苦しい場面や向き合いたくないこともたくさんあるだろう。しかし、成長を感じる瞬間は、楽しい。もっと成長したい、自分の可能性を信じたいと感じる。その瞬間をつかみ続け、理想のグローバルリーダーになるために、今日もまた、まだまだまだまだな自分と向き合い続ける。
梅木乃々佳・国際教養学科 新4年 留学先でも大学合唱団に入り、アイスランド語の曲を特訓中。
グローバルに考え、ローカルに積み重ねる (のんちゃん)

3年目の「グローバルリーダーってなんだ」
福女大に入学し、はじめて「リーダーシップ」を自分事として熱く語る先輩と先生に出逢って3年。体験学習の報告会やイベント、公開授業に顔を出し、学内外の活動で自分なりに「実践」してみて、「自分って何者だろう、どうなりたいだろう」と考えることで「リーダーシップ」を学んできたつもりだった。だが、やったようでやれていない感がずっとあった。これまでの「お膳立て」された場で、求められる「答え」を推測してそれっぽくこなすことに慣れ、そこそこでもなんとかなってしまう不完全燃焼な経験を重ねて、どうにも自己効力感にかける自信のなさとフルに注ぎこめない怠惰さが、ある種の無力感と焦燥感を生んだのかもしれない。

ここでなぜそうなったのか、またそれでやってこれたのかを考えておきたい。というのも、私自身が「グローバルリーダー」でありうると気づくまでに、自分と社会はつながっていると腑に落とす必要があったからだ。自分の価値観や習慣は、社会構造に影響され構築される。例えば、和を重んじて「出る杭」を敬遠する文化や女の子はそれくらいでいいというジェンダー規範、新自由主義と能力主義を取り入れ、数値化・標準化された「学力」の向上を重視し評価する学校教育に (鈴木, 2021)、「思考力・判断力・表現力」といえど詰込み型で一点を争う受験システム (センター試験から共通テストへ切り替わった世代)…。家庭や学校、メディアで語られる「べき論」を何度も聞いて内面化し、効率・合理性・生産性を重視した勉強やコミュニケーションを繰り返す。そのうちに、ある程度できる「良い子」ならそれでいい (多くを求められないし、求めない) という姿勢が強化される。それがいつの間にか通常運転モードとして設定され、ギアを全開にしづらくなるのではないか。 

「良い子」のままで「やったようでやっていない」状態を抜け出したかった私は、 GL演習 (GL24) を始めた時点では、自分の能力や熱量からして「グローバルリーダー」の域に到達しえないように感じていた。だから、本当に「グローバルリーダー」になりたいのかという、今思えば成り立っていない問いを立てていた。2023年度に受講した、「英語で学ぶ『リーダーシップ』」という授業で、リーダーシップの8つのキー概念や5つの実践 (Kouzes & Posner, 2013) について学んで(詳しくは、私のリーダーシップジャーニー2024)、「リーダーシップはみんなのもの」だと腑に落ちたつもりでいたが、「グローバルリーダー」となると、世界をまたにかけるエリートやスーパーマンのようなイメージがチラついていた。

しかし、GL24の仲間と一緒に「グローバルリーダーってなんだ」を1年間考え続けながら、企画を実行に移すことを重ね、多彩なゲスト講師陣の生きざまを知って、「グローバルリーダー」は自分のありたい姿にもっと近いものだと腑に落ちている。GL24を経た今、グローバルリーダーとは、自分がグローバル社会にいることを知りながら、ローカルに目の前のひとと向き合い、小さな行動の積み重ねができる「あらゆる」ひとだと考えている。

自身のあり方としてのグローバルリーダー
この1年間でGL24がよりどころとしていたのは、Perruci (2022) の定義だ。Perruciによれば、グローバルリーダーは、「地域、国家レベル、国家間レベル、そしてグローバルな問題に取り組む多様なプレーヤーを引き合わせ、協働していくための触媒の役割を果たしうる」という (p. 16)。そして、グローバルリーダーシップは、「リーダーとフォロワーが、文化的規範や価値観に根差す環境的文脈の中で、関係を育て発展させ、ゴール (目標) に向かって共に働くプロセス」だと定義される (p. 8)。

GLで出会った大人たちは、経歴に「海外」と関わる何かしらがあり、「グローバルな感じ」がするのだが、自らをグローバルリーダーだと称する方はいなかった。多様な講師陣の生きざまから学んだのは、グローバルリーダーに、何か特定の目指すべき完璧な像があるのではなく、そのひとだからこその「あり方」があって、それがPerruciのいうグローバルリーダーに値する、もしくは通ずる生き方であるということだ。話を伺って強く印象に残ったのは、広い世界で活躍しているというよりむしろ、日本含めて、関わる土地やひとをよく知っていたことだ。ローカルレベルでみつけた、ご自身の帰属意識や責任感、また怒り・悔しさ・好きといった、根っこにある感情を大事にしていた。さらに、あたりまえではあるが、どこにいるか・誰と出逢うかによって、自分のいる文脈 (環境) が変わる、その変化にどう意味づけし行動するのかによって、ローカルからグローバルへのアプローチの仕方が全然違った。

他者との関わり方にみる共通のマインド
そうして各々の文脈・アプローチで、「普通」ではない「おかしな」ことをしているGL24ゲスト講師陣は、何にどう向き合っているかは違うのだが、共通点があると考える。それはKomives, Lucas & McMahon (2007, p.47) のいう「(リーダーは) 積極的に他者に関わる (あらゆる人物) 」マインドを持ち、ローカルに動き、社会に変化をもたらしているということだ。例えば、3連続企画で企業の観点からお話しくださった船津さんは、慣れないことを楽しみ、失敗を肥やしにする姿勢をお持ちだった。

海外協力隊時代に、地元民が自分たちでリスクを背負って養蜂で地域経済をまわす事業をやろうとしたが、 NGO・地元民両者の「援助」慣れ (ないものはあげよう/もらえるから自分たちでやらなくてもいいや状態) のせいで、問題の根本的解決に至らなかったという。この「失敗」を糧に「国際開発協力」に取り組む船津さんは、 ローカルな事情とその地域・人々にとって本当に必要なことは何かを探り、外部による「援助」の先に何が残るのかまでを考えることを重視されていた。

そうしてローカルに動き、非営利の国際機関やNGOではなく、営利企業として土着のビジネスを一緒につくるプロセスにおいては、援助する側/される側が対等な立場で共通の目標に向かって協働することができる。これは、単に地域の問題に目先の結果しか考えずに対処するのではなく、植民地主義の権力構造の延長線上にある、搾取/依存関係という負の連鎖を断ち切るのに一役をかっていた。

現職では、取り組もうとしている事業がいかに大変か、そのコストはかかっても必要であるかを上司や投資家に訴えるそうだ。船津さんがアクター間の橋渡し役としての役割を果たすために、言葉を磨いて他者にアプローチする、その前向きな努力がチームやビジネス相手など周りのひとを動かしてきたことが伺えた。

自分と他者の交差点で「実践」を重ねる
私が学んだのは、それぞれのフィールドで、ローカルからグローバルまでの数段階がどうつながっているかを理解し、各段階にいるプレーヤーたちを巻き込むことで、社会を動かす影響力を発揮しだすこと、そして巻き込むには、相手の状況をいかに知り想像できるかが鍵になるということだ。それは、自分の生活圏で起きていることから、ニュースで流れる社会問題をみつめるとき、今の自分には「みえていない」世界だから、目の前にいるひと・間接的につながっているかもしれないひとが何を感じどう生きているのだろうと想像することからでいい。それが、これまで「みえていなかった」自分の特権性やその周縁で抑圧されている存在に意識を向け、自分と他者との関わり方、そこに表われる自分のありかたを問い捉えなおすことにつながる。つまり、グローバルリーダーは、マクロレベルでグローバル社会の構造を大局的に捉え、同時に、ミクロレベルで現地の人や暮らしぶりに肉薄し、そこにどんな抑圧が生まれているのかを知っている。さらに、自分が身を置いている文脈を理解し、そこに自分がどう関りたいのか、またどうありたいのかの解像度が高い、もしくは上げようとし続けるひとがグローバルリーダーでありうるということだ。

こう結論づけるまでには、GL24を通して、これまで自分の内面の曖昧にしてきた部分に向き合い、自分が身を置く社会の何がそうさせたのかをメタ認知する必要があった。「グローバルリーダー」という言葉づらから、ごく限られた偉人的存在を想起するのは、日本国外でも活躍する、立場的・役職的に上位のキャリアのひとがぐいぐい引っ張っていくのを、歴史の授業や偉人の漫画、メディアでみて、それをロールモデルだと思ってきたからかもしれない。他方、GL24で学んだグローバルリーダーシップは、そのロールモデルたちに見受けられる、もとから備わった能力でも、単にがんばれば手に入る、パワフルなコミュニケーション強化道具を指すわけではない。私たちひとりひとり、「あらゆる」個人が、自分と他者の交差点を探しながら対話することから始まり、課題意識を持ったらともかくやってみて「失敗」して、次はこうしようと実践を繰り返すことによって織りなすものではないか。
三宅佑奈・国際教養学科 新4年 クロアチア留学中。チェコでスケートをした時の写真。最近はルームシェアを始めました。
思いやり起点の「グローバルリーダーシップ」(ゆうな)

私が現時点で考えるグローバルリーダーシップは、国・民族・地域でくくらず、離れている人とも心をつなげようとし、思いやりを原動力に行動を起こしていくプロセスだ。 Komives, Lucas & McMahon (2007) によるリーダーシップ定義「ポジティブな変化を成し遂げようとする人々の、関係的で倫理的なプロセス」 (p.52) 、Perruci (2022) の「グローバルリーダーシップの課題は、世界の公益を損なうような競争に走るのではなく、協力し合っていけるかにある」 (p.15) という考え方を参考にして行きついた見解である。

Komives, Lucas & McMahon (2007) は、倫理的なリーダーシップアプローチは公益に貢献すると言う。その行為は、人々の幸福や共通の世界、公益への個人的な貢献、つまり、社会的責任を大事にすること。しかし、履修開始当時は「倫理的」、「公益を損なうような競争に走るのではなく」という部分を頭では理解しつつも、それを腑に落とすことができなかった。

GL企画で得たヒント
腑に落ちないもやもやを抱えながらのスタートではあったが、6人の学外講師からお話を伺って、いくつかアイデアを得ることができた。

千松さんのセッションでは、自身で考えぬき、自身のご興味にまっすぐ歩んできた学生時代のお話と自分を対比することで、自分の興味や望みではなく、規範や「○○しなきゃ」に縛られていることを自覚した。

大橋さんの「好きになる」、田中さんの「リーダーシップは日々の小さな瞬間に生まれる」というお言葉からは、目の前の人に日々どのように向き合えるかが大事だと気づき、クロアチアの留学生活で意識するようになった。目の前にいるひとを知る、そして「好きになる」こと。リーダーシップが相互関係のプロセスだとすると、日常のどんな瞬間によりよい相互関係をつくる行動を生みだせるか、と考えるようになった。

恐らく、大橋さんや田中さんの言葉が刺さったのには理由がある。実はここ数年、自分の中にひとに対する冷たさがあるように感じ、ひととつながることができていないという感覚があったのだ。その感覚がはっきりと認識できたのが、クロアチアでよく時間を過ごすようになった友人に「決めつけないで!(Don’t judge me!)」と言われた時だった。さらにはその友人の「日本人は決めつけるイメージがある」という発言からも、「決めつけがち」に注意を払うようになった。そんな中で迎えた冬休み旅行で、「好きになる」や「日々の小さな瞬間のリーダーシップ」について考えさせてくれる経験が待っていた。

旅行中の気づき
チェコとポルトガルそれぞれの友人宅に滞在した年末年始。その際双方の家族が、全員でただただ温かく迎え入れてくれ、衝撃を受けた。特にポルトガルの友人のご両親は「娘の友だちは娘同然」と言い、心から歓迎してくれた。滞在中に体調を崩してしまった時は、言葉が通じないにもかかわらず何度も様子を見に来てくれた。そんな姿から、表層的にではなく、本当に心配してくれているのだと感じた。

自分がその人たちに何もしてあげられていない中で寝込んでしまうという状態は、その人たちの迷惑になり、疎んじられると思い込んでいた。その思い込みに気づいたのは、ご両親が嫌な顔ひとつせずただ私のことを気遣ってくれてる様子に心温かくなったからだ。ひととしてつながる とは、相手を想い行動で表すこと、そして相手から差し出されたもので心が温まることだと感じた。

それは、「相手を思いやる」にもつながる。「相手を思いやる」は、幼い頃から教わっていて、かつては当たり前にできていたはずなのに、いつからか麻痺し、よくわからなくなっていたのだと気づいた。ひととしてつながる・相手を思いやる、というのは、何か大それたことをするのではなく、思いやりを示す行動の日々の小さな積み重ね=「小さな瞬間のリーダーシップ」なのだと理解した。

旅行の間ずっと友だちと場所や時間を共有する中で、相手をありのままで受けとめる感覚も生まれた。決めつけをもたらす自分の価値観を、「はて?」と外そうと試みながら、何気ない会話を重ねていったことによると思う。それまでは、自分が無意識に持っていた価値観に基づいてひとの優劣を「決めつけ」ていたのだと思う。決めつけたら相手を分かった気になって、それ以上その人のことを知ろうという姿勢を持てていなかった。私は昔から、「怖がり」だと言われてきたのもそこにつながるように思う。つまり、優劣をつける・決めつけることで「わかった」気になれば、相手と衝突して自分が傷つくこともない。その切り捨て感が自分の中に感じていた「冷たさ」だったのだと考えた。

湧き出る気持ちを大切に
旅行から帰り、さらに価値観について考えていくうちに、何一つ絶対的に正しい価値観・規範はないことを理解した。それは、無自覚だった自分の価値観を自覚して、それを外そうと試みながら友人と向き合ったことで、それまで無自覚に持っていた価値観では測れない相手の魅力を知ったからだ。

GL担当教員の和栗先生から、私たちは社会化されている、つまり規範に縛られているのだということを教えていただいていたうえ、千松さんのセッションでは何かに縛られている自分に気づき、それを外そうと試みていた。しかし、無自覚のうちに自然の摂理ほど正しいと感じていた「効率・生産性・論理」については、その正しさへの思い込みをなかなか外せていなかったのだと思う。効率性は、生産性つまり数値的・客観的な成果として見えやすく、そのような成果を見せなければ、実社会では自分の価値はない・生きていけない。効率性や生産性を上げるには論理性が大切だと、いつの間にか刷り込まれてしまっていた。刷り込まれた「効率・生産性・論理」でひとに優劣をつけていたけれど、そのような価値観では測れない人間の魅力があるということを、旅行を通じて理解した。

今となっては、「しがらみ」のような正しさへの思い込みだったと思う。その思い込みを外してみてひととしてつながるということができただけでなく、「論理的=感情的ではいけない」規範によって抑えていた自分の中から、望みや怒りといった感情が湧いてくるのを感じている。そして、自分の感情に自覚的になることで、他者にも共感できる気がしている。なぜなら、その望みや怒りは、自分のために湧いてくる場合もあれば、他者を想って湧いてくる場合もあるからだ。

他者を想って湧いてくる感情と共感が、倫理的なリーダーたる要素に重要だと今では理解している。例えば、「人々の幸福・共通の世界・公益」を損なう物事に対して、おかしいと感じ、どうしてこんなことが起きるのかという怒りをもつことで、その怒りをバネに行動を起こすことができると考えるからだ。

決めつけ
前述の「決めつけ」に関しては、自分と同じようにどの人も自分のことを決めつけてくるだろうという、「決めつけ」も実はもっていた(自分を決めつけてくることについては、相手の「価値観」ではなく「偏見」と決めつけていた)。そして、そんな「決めつけ」をしょうがないこととして諦めていた。それがグローバルな規模でも、人が国同士・民族同士で決めつけて対立するのはしょうがないことだと心のどこかで思っていたのだと感じる。しかし、旅行の経験を通じてありのままにひとを理解するという感覚を覚えた今、ひとを国や地域で決めつけるのはおかしいと考えている。国・地域間で対立して当たり前という決めつけは、今ふりかえると「グローバル」への若干の嫌悪感(きれいごと)や、物理的にも心理的な距離感を生み出していたのだと思う。

ここまで書いてきた決めつけ、思い込み、価値観、規範…について、まだ無自覚に従っていることがある。ただ、自分の心の中にある、「自分が傷つくかもしれない」というひとに対する恐れを自覚するようになっている。すぐに変化することは難しいけれど、めげずに、目の前の人に向き合い、そこから湧いた感情をばねに行動を起こす、そんなグローバルリーダーでありたい。
上村明空・国際教養学科新3年地域猫餌やりボランティアをしながら興味を模索中。最近はモルックに熱中!
「グローバルリーダー」をよりどころに文化をつくる (みく)

「リーダーシップ」と出逢うまで
これまでの中学や高校での体育祭や文化祭、授業でのグループワークや部活動、大学入学後は特に寮生活などでも、他者と何かをすることという場面は日常茶飯事であった。しかし、他者との関り方については考えず、友達同士でのありがちな「なかよしこよし怠け合い」で、自分が割り振られた物事を進めてそれを達成できれば良いと思っていた。また、他者と何か一緒にするよりはひとりで事を進める方が自分の頭の中だけで完結できるし、自分のやる気や力量次第で思った通りに進むので「楽」で良いと考えていた。

チームの文化をつくる
それが、GL演習で何かの目的に向かって他者と協働するプロセスを学ぶことで、変わった。それには2つの要因があると思う。

ひとつめは、GL演習に先行して1年次に履修した(GL演習メンバーのあや、のんちゃん、ゆうなも履修)「英語で学ぶ『リーダーシップ』」で学んでいた、Kouzes & Posner (2013)によるリーダーシップの8つのキー概念のうちのひとつ、Leadership is a relationship(リーダーシップは関係性・相互関係)というもの。そしてふたつめが、もっと成長したいという目的を共有したGL24チームへの帰属意識と、相互関係を大切にしながら目的に向かう、という共通の前提により、「なかよしこよし怠け合い」(「恣意的」)とは全く別な、肩の力を抜いた心地よさのもとで目的に向かっていける(「意図的」)状態が生み出されていたことである。

チームで動く際には、何のために何をどうするかや、そのためにお互いのスケジュールをどう調整するかなど、話し合うことがたくさんある。「ここがうまく伝わっていないな」、「みんなが動いているときに自分には何かできているのかな」と、もやもやすることがあるものの、ひとりではなく、相互関係を大切にすると決めたチームに自分が所属している。だからこそ、自信の無い部分を確かめあえたり、動けないときに入れ替わり立ち替わりで動けたり、作業するだけでなく何気ない会話をしたことによって新たに関係性を築けたりという、協働することでしか生まれない「楽」さも「楽」しさも得られたと思う。

だからといって、「他者との協働」は全て肩の力を抜いて行えるものかというと、恐らくそうではない。GLでの経験から他者との協働において帰属意識や相互関係性を醸成するために特に必要だと思ったことは、「人にしてもらったらうれしいことを積極的に体現する」である。「自分がされて嫌なことは他人にもしない」と似ているかもしれないが、私の中では全くニュアンスが違う。嫌なことをしない、だと、自分を守るための行動であって、相手を気遣った行動ではない。自分を守ろうとすると、何かしらの目的に向かって相手と関係性を築きながら行動していくにあたって、積極的にはなれないと感じるからだ。その目的に向かうプロセスで相手を気遣い、相手の立場に自分が立って自分がどうされたらうれしいだろう、どうしたら状況をもっとよくできるだろうと想像して行動するのは、目的を達成することにもつながる。

「英語で学ぶ『リーダーシップ』」で学んだ Kouzes & Posner (2013) の唱えるリーダーシップ行動のひとつに、「チームのために貢献してくれたメンバーに対して感謝を伝える」という行動がある。GL24メンバー5名のうち4名は「英語で学ぶ『リーダーシップ』」履修生だったので、関係性づくりのために感謝をアクノレッジし合う重要性への共通認識があった。それによって、お互いの行動について感謝し合い、感謝し合うことから相手にとってもうれしい行動だったと認識でき、感謝を伝えられることで自分がこのチームに貢献できている、見てくれているひとがいるという安心感や帰属意識を生み出し、感じることができた。

例えば、以前なら、グループで作成する文書などで誰かの間違いに気づいたときに「これ教えた方がいいかな」と考えるだけだったが、GL24では「自分だったら教えてほしい」という「してもらったらうれしい」という視点を持つことで、お互いに伝えることができ、より完成度の高い文書となり、それに感謝しあえた。

以前の私が「これ教えた方がいいかな」と考えるだけだったのは、自分も指摘されることに抵抗があったからだろう。それは、相手がなぜ指摘してくれるかを考えることがなく、単に否定されるように感じていたからだ。同じように、指摘することで相手が否定的な評価をされてしまったと感じて、その相手との間に軋轢を生みたくない、と思っていたと、今ならわかる。完成度の高い文書をつくることには無関心で、単に「楽」でいたかったのだと思う。しかし、GLメンバーや先生方から指摘してもらう時には指摘の理由が示されていて、そもそもよりよい文書を作ろうという目的に皆で向かっていたので、否定的なものである(指摘されるのは否定的なことだ)という意識はなく、むしろ自分が間違いをしてそれに気づいていなかったことに指摘してもらった方がうれしいと感じた。

恣意的から意図的へ
一年間の演習を通して「よりよい企画にする」という目的のために指摘すべきことはすべきで、そのためには、グループ内でまず目的を共有し、それに向かって行動しようという共通認識の確認が重要だと考えるようになった。そのためには、「このグループなら伝えるべきことを伝えあえる」という環境をつくりだすことも必要である。その環境を作るためにはPart 1でも述べたように、「Fearless」でいることという意識のもと肩の力を抜けるようなチームでありつつ、目的を忘れず、指摘を実践していくこと。そんな工夫を通じて、今まで怠けたいだけともいえるような恣意的な「楽 (ラク)」さを求めていた私とは違う、意図して行動する「楽 (たの)」しさをつくりだすこともできた。

GL演習を通して「グローバルリーダー」とは、自分の利益を求めるだけでなく、当事者の視点に立ち、まずは自分のまわりの世界をよくしていく目的を達成するために、他者と共通認識をもって協働し、人にしてもらえたらうれしいことをできる人だと考えた。これは、GL演習での経験と、Part 1でも述べた企画の中で特にスピンオフ企画「聴く・話す・Let’sカードゲーム!『地域共生社会』実現に向けての協働って?」での中沢先生のお話や稲葉さんのカードゲームをプレイしたことの影響が大きい。自分視点ではなく、周囲の人のニーズを意識しながら行動することがめぐりめぐって世界の公益につながっていく。

4. GL演習(GL24)から拡げる学び

「やってみる」(あや)

GL演習が始まってからの1年間が、今までで1番「やってみる」ことに挑戦した年だった。今までの私は、やってみて失敗したら...あの人意識高いよねと思われたら...そう考え、足を踏みとどめることが多々あった。そんな自分を変えたいと思いつつも、自分ひとりだとなかなか勇気が出ない。そのため、何かに挑戦してみたいという思いをもち、切磋琢磨しながら頑張れる仲間を見つけたくて、GL演習を履修した。

GL演習は企画書やメール、ゲストセッションに向けての準備など、とにかく「やってみる」を実践できる場がたくさんあった。しかし、メールを書いてみるも相手の立場に立って考えられず失礼な文章になる、GLメンバーの中で、それぞれができることを入れ替わり立ち替わりするために調整してみるも、今忙しいから代わりにお願い!のように本音が伝えらえず結局締め切りに間に合わないなど、「やってみる」と、その分やらかしも出てくるが、それと同時に学ぶこともたくさんあった。

企画に参加してくれる人がいる喜びや、やりきったという達成感、できない悔しさ、そんな自分に対する苛立ち。未熟な私たちに、同じ熱量で向き合ってくださる先生方や、まだまだ良くなるはず!と共に言い合える仲間の存在がいることの尊さ。何もやらずにただただ後悔するよりも、まずは「やってみる」、そのうえでやらかしたことは肥やしにして次につなげていけば良いということを実感した1年だった。

Dugan (2017) はリーダーシップに関する効力感、キャパシティ、意欲、そして実行には相互関係があり、リーダーシップに必要な能力 (キャパシティ) を持っていても、高い効力感がなければ、実行していく可能性は低いと論じている。このDuganの考えに照らして整理してみると、GL演習でたくさんのことをやってみた経験から、私できるじゃん!という効力感を感じ、自信を重ねてきたという経験があったからこそ、まずは自分のできる範囲から、次の新しいことを実行してみようという思いにつながっていくのではないかと考える。

「関係性を築く」 (ゆづ)

GL演習が始まって間もないころ、あやちゃんから教えてもらったことがある。それは、相手の状況を慮ることや、相手と最後に会った時からメールを送るまでの空白の時間を埋めることで関係性を築くという理由から、いつもメールの冒頭には、スモールトークを書くということだ。スモールトークとして、以前相手と会った時のことについて触れたり、自分の近況を書いたりすると教えてもらって、正直、そんなことするんだ!と思った。メールは、必要な用件だけ書くと学んでいたので、最初のころは、メールの初めにわざわざ自分の近況を書くことにためらいがあった。

しかし、自分の近況など、スモールトークを書くことも相手に自分のことを知ってもらうためのひとつの手段であり、AI的ではなく「ひと」と「ひと」として関わることになるのだと、自分がスモールトークを書いたり、それに対して返信をもらう中で気づいていった。書きたくて書いてはいるものの「今日はスモールトーク何を書こう」と悩み、さくっと送りたいメールに時間をかけすぎることもあるが、書いたものに自分になかった視点でコメントが返ってきたり、お互いのことを知れていると感じたりすることが楽しく、今も続けている。

また、活動する中で知り合った大学の職員さんに会ったときに、以前お世話になったお礼をして終わりではなく、何気ない会話をするようになった。今まで、何か用事があるときにだけ関わっていた方々だったが、「職員さん」ではなく、「一人のひと」という関わり方をすると、うれしいことがあった。自分はもちろんその方のことを覚えていたが、「あのときあんなことを話した」と相手に自分のことも覚えてもらっていた。このうれしさから、「ひととして関わる」ということを大事にしたいと思うようになった。

いつからか、同年代の友だち以外とは深くかかわらず、一線引いて人と関わっていた私だったが、GLでの活動を通して、人と関わるとはどういうことなのかを思い出し、「関係性を築く」ということについて学ぶことができた。大学生になって、こんなに人としての基本的なことを学び直すことになるとは思っていなかったが、まだまだ自分も成長するのびしろがあると実感した。

「本音で言ってみる」 (みく)

GL演習が始まったころは、一つ意見が出ると、それに全員が賛成して他の方法や案については比較検討せずに進めていた。和栗先生と何度も企画について相談させてもらう中で、アドバイスをもらったり、違ったら教えて欲しいと言ってもらったりした。

その過程で、当たり前ではあるが、目的に向かってよりよい企画を練るためには、画一的な意見だけでなく、今あるものと対比させて良いものを選ぶために多くの案が必要であることに気づけた。何か言ってみようという意識を持ち、自分の意見を出せるように変化したと感じる。それぞれが意見を持ってはいても、Part1にも書いたように、これまでの意見を言わない積み重ねもあり、「言ってもいい」という前提がないとみんなが意見を出しあうことは難しいと感じた。だからこそ、良い企画をつくるために意見を出しあうという共通認識を持つことで、Part1で述べた心理的安全性のように率直であることが許される状態を作り出し、 言いたいことを言い合える、肩の力を抜けるような関係性づくりと企画の向上につながった。

また、始めは企画書づくりや学内広報メール、先生やゲストとのやりとりメールで、相手の状況を考えずに文章を書いていた。しかし、何か活動するためにはひととのかかわりが不可欠である。ひとと関係性を築くためにも、少し自分の状況をシェアするスモールトークを入れたり、相手の状況も気にかけたりして、受け取る相手がいるという意識を持ちながら文章を考えた。それにより、自分視点だけではなく、受け取り手の視点を想像し、複数のレンズで世界をみることができるようになってきた。

「言語化する 」(のんちゃん/後半3段落はゆうなと共同執筆)

やってみて感じたことについて自分の学びを言語化することはGL演習の目的であり、「他者に伝える」ことを前提に考え書くことで、思考を整理し、自分が何をどう学び捉えているのかを再考し言葉を得るプロセスだった。これは、和栗先生が私たちにたびたび示してくださった、コルブの経験学習サイクルがベースのモデルとなって、体験学習における DEALモデルとして提唱された「書くことから学びを生みだすリフレクション」手法だ。自分たちの学びは自分自身にとって何を意味するのか考え見いだし(sense/meanig-making)てきた。

私はGL24をはじめたころ、「自分の言葉は本当に思っていることとずれている」と自分のもつ言葉の不自由さを感じていた記憶がある。GL24では、授業での学びの振り返り、GL24の評価基準(どんなチームを目指すのか・何を伸ばしたいかを自分たちで決めた) 、企画書(何回も書き直す×3回) 、先生やゲスト講師とのメール(ゆづが前段で書いているスモールトークも) 、学内広報メール、参加者とのやりとり、そして今回の1年をふりかえる活動報告記事と、普段のGL学生メンバー間でのLINEやお互いが書いたものの推敲も含め、たくさんの「言語化」の実践機会があった。そこでは、誰に向けて何のために書くのか、なぜその言葉を使うのかを問われ、相手にどう伝わるように表現するのか「意図して」書くことを繰り返した。それは、常にその言葉が届く先の誰かを想定する「積極的な他者への関与」である点で、リーダーシップ(=プロセス)の実践そのものでもあった。

社会問題に取り組むにあたり、価値観や背景の異なるもの同士の協働が必要なのだが、現実として、職務範囲が規定されていたり (3連続企画、田中香苗さんのお話) 、組織間で利害関係があったり(スピンオフ企画、稲葉久之さんのお話)、その組織の枠をでること自体、エネルギーを要し、摩擦をともなう。だからこそ、「様々なプレーヤーを引き合わせ」対話を促すグローバルリーダーが必要だ。さらに関わるひとや組織の幅がグローバルレベルになるほど、言語や文化、社会背景といった前提部分での違いが多様化するため、その共有が必要になる。ゆえに、様々な人や組織と関係を築き、共通の目標に向かって働きかける「触媒」としてのグローバルリーダーには、率直かつ明確に言葉を駆使する力が求められるといえるだろう。

「言語化」の観点で、「グローバルリーダー」とGL24が目指した「Fearless (恐れのない)組織」を私たちGL24の学びそのものと重ねることができる。GL24では、共通認識のもとリーダーシップ行動を「実践」していくために、評価基準として言語化し、普段からLINEやミーティングで「わからない」や「納得できない」、「もっとよくできるのでは」と意識して伝えるようにし、さらに年度末にはお互いのリーダーシップ行動についてフィードバックをした。「いま言わなくてもいいか」と何もしないでいたら変わらない。そこでFearless実装として率直な言語化を試みることで、チームが成長することにもなるし、お互いの言葉が励みに (ときに反省・改善点) もなっていた。したがって、他者とのかかわりにおいて、「率直さ」をもって「言語化する」ことを身をもって学んできたことから、Fearfulな社会をFearless化するグローバルリーダーとして、私たちGL24を認めることもできると思う。

ここで書きたいのは、GL24を経て「自分=グローバルリーダー」になることができたというゼロヒャクの成長物語ではない。Fearlessを掲げながらも、Fearを抱えたままにしたこともある。留学組のゆうなと私はこの記事を何度も書き直す過程で、そんな自分たちの状態と理由を言語化を試みることにした。 Fearful状態を抜け出せなかったのは、自分が嫌われない=傷つかないよう、他者との摩擦を避けるのに慣れきっていたからだと思う。Fearlessであろうと心がけて、 ある程度の率直な言語化はできても、嫌われるかもという恐れから最後のひとふんばりができなかった。

留学開始後、日本組は、私たち2人のために対面MTGの内容共有やオンライン接続の準備を毎度してくれた。大感謝しながらも、「忙しいなかわざわざ自分たちに時間と労力を割いてもらうのは申し訳ない」からと、実は、日本組だけでの動きの活発さに置いてけぼり感や企画準備ばかりに時間を使ってお互いの近況をあまり話せず「つながれていない」感があったこと、メールや資料の仕上げなど残りを拾う持ち回りになりがちで本当に学べてるのかともやっとしたことを言わなかった。あのとき、もっとこうしたい・できると自分たちから持ち掛けるに至らなかったのは、まず言ってみないと相手がどう思うのかはわからないのに、嫌われることを自分で勝手に恐れて、もっと話す時間を作りたいなど、自分がどう感じていてどうしたいか表現するのを諦めたからだと思う。相手のことを思っているようで、本当のところは、余計なことをして傷つきたくないと自分をまもって「言語化」しなかったと言えるかもしれない。

「どう思われるか」を気にして保身に陥る状態を自覚することは、自分が何を「恐れ」ているのか、何が自分を「恐れ」させているのか考えることであった。それは同時に、他者との関係性やチーム文化を問い、チーム全体(同じ組織の他者)のFearにも意識を向けることでもあった。相手の気持ちを想像する、自分がそのチームでどう働きかけたいのかを考え、表現するようになる。私たちはFearfulさを抱えながらも、書くことで自分たちのFearに向き合い、そのリアルなもがきを発信することにした。これはつまり、意図的・積極的に他者と関わろう=リーダーであろうと試行する自分が確かにいるということなのだ。

5. 私たちのこれから

GL24の活動を通して、「グローバルリーダー」を自分の言葉でどう表現できるのかについてだけではなく、どうすれば何かをつくりあげるために、熱量を共有して、支えあって自ら能動的に動ける仲間になれるのか、そしてどのようにその関係性を大事にしていくのかという、関係性づくりについても学んできた。GL24の学びのプラットフォームだった2024年度GL演習はここで終わるが、2025年度、GL24での学びを肥やしにさらなる「実践」に向かおうとしている。

例えば、語ることをタブー視されがちな「生理」に自分と社会との重なりを感じ関心をもってきたのんちゃんは、やっている・やろうとしていることを言語化し発信すること・学内外で巻き込んで企画や組織づくりに取り組もうとしている。昨年度までは、GL1期生と共にまずは福女大からと、生理用品をトイレに常備する仕組みを考え、学内でトライアルを実施した。2025年度は、生理用品をきっかけに個人レベルからグローバル社会レベルの問題に意識を向け、あたりまえを問い対話する文化をつくることを目指している。また、みくは2023年度3月に山口県岩国市に農業体験に行った経験や、2024年度1クォーターに履修した「企画づくりの基礎」の学びのまとめとして八女市黒木町にある祖父のお茶畑で1泊2日の農業体験の企画をしている。農業人口が減少していることや普段と違う場所で違う人と寝食を共にすることによる人とのかかわりあいの楽しさを福女大に広げようとしている。

これからも、それぞれが何かチャレンジングなことをしたいときに、心強い仲間として巻き込み/巻き込まれることで、触発しあう/切磋琢磨する関係でいようと決めた私たち5名。いまだに「ああやっちゃった」となることもたくさんあり、全部がうまくいくわけではないが、そんな自分たちも認め鼓舞して、「まだまだまだまだ自分」精神で日々成長していく。これからも、私たちの学びは続く。

【参考文献】
Dugan, J. P. (2017). Leadership theory: Cultivating critical perspectives. San Francisco, CA: Jossey Bass.
Komives, S. R., Lucas, N., & McMahon, T. R. (2009). Exploring leadership: For college students who want to make a difference. (p. 4). John Wiley & Sons.
Kouzes, J. & Posner, B. (2013). The Student Leadership Challenge: The Five Practices for Becoming An Exemplary Leader: San Francisco: Wiley.
Perruci, G. (2022). The global dimension of leadership. In G. Perruci (Ed.), The study and practice of global leadership (pp. 3-16). Emerald Publishing.  
鈴木大裕. (2021). 新自由主義と公教育の危機. 長周新聞. https://www.chosyu-journal.jp/kyoikubunka/20311